地球儀をまわして

大学生があれこれ思ったことを書いていきます。

読書と思考

 

みなさん、本は好きですか?

小説や新書をはじめ、数多のジャンルで私たちの生活を色付けてくれます。

いわば人生のスパイスとでも言えるでしょうか。

 

さて、世間にはこんな言説が多くあります。

「読書は人を成長させる」

「本を読んでないと1人前じゃない」

後者は些か幼稚な喩えになってしまいましたが、世間一般にいわれるように本を読むことと人間性の成長に必要十分条件(懐かしい単語です)は成り立つのでしょうか。

 

結論から申しますと、一概にはそうはいえません。成り立つこともあれば成り立たないこともあります。

読書をすると、未経験の情報や他人の思考が否応なしに入ってきます。内容を頭に入れるのは大変なことでしょう、自分でその内容を生み出していないのですから。例えるならば、ソースかつ丼の味をいくら説明されても何言ってんだかくらいにしか思いませんが、実際に食べてみると秒で「アッ!これうめえ!」となるはずです。自ら生み出した味の感想は言葉より奥深く生半可な語彙では表現し難い経験となります。思考ならなおさらです。ある地域の地図、名物、歴史を幾冊読んでも実際に行ってみるのとでは地域の実像の捉え方は異なるでしょう。

 

読書だけで完結していては自分の考える精神が腐ってしまいます。確かに読書は新たな知見、考え方を自らの頭に輸入させますが、読書ばかりを繰り返していては自分で考えることが出来なくなってしまうかもしれません。

もちろん、本など読まずに遊び呆けているよりは書を読み勉学に励む方が遥かに生産性の高い事なのは承知の上です。多読がイケナイなんてことを言うつもりはさらさらありませんし、実際僕も読書が大好きです。ただ、本を信奉し過ぎて自意識を奪われるまで、自己の思考の鍛錬に費やすべき時間まで本に費やしてしまうのは折角仕入れた知識の価値を下げているような気がしてならないのです。

 

大学4年になって実感していることが、勉学の容易さ(特に範囲の決められたテスト勉強)、研究の難しさです。この間テレビ番組で林先生が「試験範囲のある勉強大好きです!」と仰ってましたけど、これも先ほどの読書と同じ理論で説明できるでしょう。義務教育などの勉学は教科書の内容を理解すれば点数が貰え、それはまさに知識の輸入であり、知の消費行為です。逆に、研究は自分で考え抜いた末に実験方法を決定し、実験し、結果を考察します。この知の生産過程では必然的に熟考が求められ、僕含めた多くの学生がこの熟考に悩まされていることでしょう。既存の研究から問題点を見つけ、解決策を模索し、結果について有意なことがあるかどうか検討する。文章にすると3行に収まりますが、苦悩は言い表せません。言い換えれば、私達学生は今まで輸入しかしていなかったのに、いきなり加工貿易に転換を求められてもたついている発展途上国なのかもしれませんね。この転換を華麗にキメて経済成長できた若者が研究者として大成するのでしょうか。

なんか偉そうにタラタラ述べてましたが、今僕に求められることはこの熟考なんですよね…先の見えない日々ですががんばっていかないと…